ありがとう。
子どもができたの。
大事にして。
生まれたわ。男の子です。遠矢と名付けました。
あなたに似てる。かわいいわ。
ライヤがもうめろめろなの。ああも自由な父親で、この子が反抗期になったときがすごく心配。
一歳の誕生日おめでとう、トオヤ。
ありがとう。←トオヤが打ったのよ、これ。
パパ、ママは言えるけど、父上、母上っていうのは難しいみたい。
名前で呼ばせてみたらどうかしら? ……でもやはり、父母と呼ばれたいわよね。
春が訪れて花開く。夏がやってきて光を降らす。秋が世界を色付ける。冬が舞い降り静まって、また訪れた春は温かい風で触れる。
繰り返されるやり取り。内容は文通のそれ。二人は会いもしないのに相手を親友と呼んでいて、たった一度会ったライヤを示す「ライヤ」という文字は、長く付き合った人間のように、ほんの少しの苦笑と呆れと愉快さで躍っているようだった。アヤはライヤがセシリアと会ったことを「ずるい」と言い続け、トオヤを抱いてムービーをみながら、「あなたも会いたいわよね」と言い始めたものだから、ライヤは「英才教育はやめてー」と慌ててしまった。
ライヤが買ったお二人のお城は、心優しい使用人たちと、アヤとトオヤの笑い声が響き、時折訪れる、祖父母となった両家の父母たちが持ってくるプレゼントで溢れた。
あれほど口うるさくアヤとの付き合いを諌めてきた父は、ライヤが結婚すると言い出したときから何も言わなくなった。母もそうだ。二人は息子がこれと言い出すと決して己を曲げないことを知っていたのだろう。理解のある、出来た人たちだと、孫を前に相好を崩す両親を見て思う。
心は生まれ、自分たちは生まれ落ちた。まるでそれは幻のように美しく、楽しく、日々に喜びが溢れて、二人は「これは泣きたいくらい幸せなのだ」ということを知った。
やっとライヤは二十歳。アヤは十九歳。セシリアは十八歳になった。途中から参加したトオヤは二歳。
すべてが真実であり、真剣だった。幼かったと、笑うことは己自身にしかできまい。
セシリアと知り合ってから、ライヤは定期的に総督府のサーバーにアクセスし、彼女が関わっているプロジェクトを洗い出し、経過報告をチェックしていた。
計画者たちは、セシリアの精神状況をやけに細かく診断しているようだった。思考のひとつひとつ、よぎった感情のひとつひとつを調べ、解き明かし、結論づけようとしていた。心理学者、発達心理学や女性心理学者など、関係者は細部にわたっており、その検査を、ライヤは拷問に近い尋問だと想像した。
ある日、彼はセシリアが新プロジェクトに関わることを知った。
プロジェクト『女神』。
統制コンピューター【エデンマスター】の代替機を作成し、継承するプロジェクト。巨大になりすぎたサーバーをコンパクトにし、効率的に稼働させる計画。そこにどうしてセシリアの名前があるのだろうと読み進めていったライヤは、その突飛で醜悪な計画に絶句した。
セシリアの他にも、数人の第三階層者の名前があった。これを候補と呼び、能力などを総合的に評価し、最もふさわしいものに認定を与え、更に試験などで振り落とし、内定したものを【エデンマスター】と接続させ、後継者とする。読み違えがなければ、そう書かれていた。
統制にコンピューターと人間の頭脳の双方を利用する、というのは、ある意味発想でもあるが、どう考えてみても人体実験の延長にしか思えない。
セシリアは、このことを知っているのだろうか。
告げられたときのことを想像してみる。温室の中で異質である監視者にそう言われ、彼女は「そう」と言っただけで、微笑んだだろう。
「あ、うー」
「こら、トオヤ。父上の邪魔をしちゃいけませんよ」
背後から声が聞こえ、ライヤは椅子を回転させた。細いドアの隙間はこうこうと明るく、アヤとトオヤの声が聞こえてきた。トオヤは何かを喋っているが要領を得ず、だがアヤは「うん、そうですよ」と答えている。
ライヤは扉を開けた。アヤはその顔を見て。
「私よりもひどい顔」
と言うので、ライヤは笑ってしまった。
だが、その笑いも、憂いに曇った。そして、失意に歪み、無力感に崩れた。
「ライヤ」
抱きしめられながらアヤは何かあったことを悟り、トオヤは遠慮なく父親の髪を引っ張った。その痛みは幸せだが、心の痛みはどうしても我慢ならなかった。
「セシリアが」
一言で、アヤは表情を変えた。そして、ため息をついた。
「『女神』計画のことね?」
ライヤは言葉を失った。アヤは、緩やかに微笑する。
「一日家にいるんだもの……あなたもそういう本を書斎にたくさん置いてあるし。少し勉強して、悪いことだと知りつつ、やってみたの。クドウのサーバーにアクセスしただけだったけれど、その計画書ファイルがあって」
「アヤ……」
「何も出来ないのかと考えてた。セシリアに尋ねようにも、触れてはいけない気がして……」
ライヤを抱きしめていたアヤもまた、相手に身体を預けた。熱がある身体を抱きとめて、その苦しげな声を聴く。
「ライヤ。助けて。あの子はきっと
人間を統制コンピューターに据えるなら、その統制コンピューターの後継者を人間を模したものにすればいい。
AIを開発し、人間と同じ思考を持てるようにすればいいのだ。
発想の順序がまったく逆転した計画書を、ライヤは総督府に叩き付けた。政府は騒然としたらしい。そんなことが可能なのか、それよりもSランク遺伝子保持者による運営は、などと大人たちは意見を交わし、支援を表明したのがサイガ氏だった。
資金源を得て、ライヤは開発に着手した。
時間がなかった。候補者が候補として認定され、能力検査が始まっている。セシリアはすでに通過しており、ライヤもアヤも、彼女が内示を得るのはそう遠くないと分かっていた。
ライヤは何度目かになる舌打ちをした。何度文面をなぞっても、のらりくらりとかわす、詩的な手紙がパソコンに表示されているだけだ。タイミングを見て説得分を送るのだが、セシリアはそれを軽く受け流して、トオヤの様子を聞いてきたりする。
「時間がないってのに」
鳴った電話を取り上げると、最上位研究施設からだ。ライヤは怒ったような声でそれに応じた。
「はい! はいはいはいはい! 分かってます、分ーかってますよっ! だからさっき送ったじゃないですか! ……解析できない? あんたらそれでもAI開発部門ですか。え? サイガのじじいがなに? 現場分かってないやつの言うことなんて聞かなくていいから! あいつただの財布だから! ああ? ……死ねって言っておいて」
受話器を叩き付け、あんのくそじじいー! と叫んだ。
期限間近の仕事が増えた。机に両手を叩き付けるライヤは、もうすでに三日間仮眠生活だ。食事もおろそかになって、カフェインと栄養ドリンクを接種する生活が続き、行き詰まっているのに頭の中はめまぐるしく回転している。
知識が、技術が、時間が、足りない。世界のあらゆるところが不足している。いつもならその隙を縫うようにしてつかみ取る可能性や発見は、今はまったく手の届かないところで、光ることもなく沈黙している。焦りばかりが頭を焼き、思考を鈍らせていく。
「時間がないんだ」
ぽん、とボールが跳ねるような音がした。パソコンのアプリがニュースを受信したことを知らせたのだ。いつものように斜め読みするために起動させ、ページを開く。
『三氏『未来都市構想』発案』
『北部で豪雨 降雨ピークは早朝5時』
『女優ナツナ・ミズノ、熱愛発覚!』
『繁華街で連続強盗 UG犯行か』
『都市郊外で創世記の遺産発掘』
気になったのは、創世記の遺産という言葉だった。クリックして開く。
写真には、ブラックボックスのような箱が映っている。エデンは、今も郊外の森を開き、少しずつ巨大化している。その作業中に写真のものや、データチップのようなものが多数発見されたという。どうしてこんなところに埋まっているのか、調査が期待されると結んであった。
ライヤは目を細くして、その意味を吟味した。
(蓄積されていくデータの中で、データ破損が多く、記録媒体も行方が知れないものが多数あるという、エデン以前の記録。発見されたのが遺産ということなら……埋まっていたということは意図的に廃棄されたのか?)
研究者の間で、まことしやかに囁かれている噂がある。
エデンの歴史の多くは、地下階層に埋まっている――。
アンダーグラウンド。犯罪者集団UGが根城にするその階層に。
街一つ完成させるような頭脳を持った科学者たちが結集したこのエデン。その古い歴史を紐解けば、この状況を打破できるような新しい発見があるかもしれない……。
(だめだ。現実逃避だ、これ)
背もたれに背中を預け、ライヤは息を吐いた。