それからの記憶は、あまりはっきりとしていない。没頭するように作業をして、メールの返信も電話の応対もおざなりになり、たまにやってくるアヤの腕の中でいつの間にか眠り、横たわっていたベッドから一人起き出して、作業に戻る。
 だから知らなかった。第三階層の派閥争いが激化していることを。そのやり玉に、自分が上げられているということを。

 危険分子。

 技術を独占し、私腹を肥やす事業家。しかし開発した数多くのものは悪用され、犯罪の増加を助長した。今はAIの開発に携わっているが、いずれ彼はエデンを独占するつもりだ――人はライヤ・キリサカをそう認識した。
 ライヤは、それがサイガの扇動であったことを後にする。彼の流布させた噂は、まさに彼自身の自己紹介だったのだと。

 扉が開く。
「ライヤ!」
 息せき切って飛び込んできたのは、キリサカ氏だった。髪を乱し、靴を汚したまま、彼は低く命じた。
「逃げろ」
 キーボードを打ち続けるライヤは、その声を背中で聞いた。
「逃げろ、ライヤ! 第三階層はお前を捕らえるつもりだ。このままでは監禁され、奴隷のように扱われる。永遠にエデンのために使われる。ライヤ!」
 たんっ! とキーを叩いて、ライヤは答えた。
「どこへ逃げるの」
 自動チェックを始めたデータを目で追い、エラーを確認する。
「どこへ逃げるの、お父さん。第三階層者が、どこへ逃げられるっていうんだ」
「アンダーグラウンドへ」
 キリサカ氏の答えははっきりしていた。
「アンダーグラウンドは技術者を必要としている。お前を受け入れるだろう」
「どうしてそんなことが分かるの」
「私がお手紙を出したからよ」
 その声にライヤは初めて振り向いた。トオヤを抱いたアヤが、静かに微笑んでいた。
 立ち姿が、白く、透き通るようで、不安に駆られたライヤは椅子を鳴らして立ち上がる。
「UGの代表の方に依頼をしたの。亡命先に受け入れてくださいませんかって。何度かやり取りして了承を頂いたわ。これは、地図と、アンダーグラウンドに入るためのパスワードよ」
「アヤ」
 恐れに、ライヤは首を振った。トオヤを下ろしたアヤは、ライヤの頬をそっと撫でる。
「こうでもしないと、あなたは私から逃げないから」
 ごめんなさい、と彼女は言う。
「だから勝手に決めさせてもらいました。さあ、行って」
 首を振る。できない、と泣き声の合間に言う。アヤは微笑むだけだ。どこまでも広く、深く、あたたかい。
「どうか、セシリアを連れて行って。あの子を助けてあげて。時間がないのよ、ライヤ」
「アヤ。君を置いていけない」
 やせ細った頬、筋の浮き出る首筋、折れそうな腕をライヤの首に回す。冷たい身体。血の気のない、人工の臓器で生命活動をまかなわれる彼女。不意に足下が温かくなり、ライヤは目を向けた。ズボンの裾を息子が掴み、じっと、訴えるように見上げていた。
「時間がないのよ」
 アヤは言った。
「私には」
 ずっとそうだった。アヤは、自分の限界を知っている。なのに彼女は、ライヤのプロポーズを受けてくれた。幸せにする、悲しいことが帳消しになるくらい。そう決めたのに。
 だから不覚にも、涙声になる。
「君に、危害が及ぶ。当局の尋問が」
「耐えてみせるわ。向こうも、半死人の私を拷問はしないでしょうし」
 あっけらかんとアヤは言う。ライヤはそして父を見た。両親、そして一族郎党にも被害は及ぶだろう。家は取りつぶされ、失墜したキリサカ家は恐らく崩壊する。
「大丈夫だ」と父は笑った。
「第一階層に、隠れ家を作ってある。折りをみて連絡する。私と母さんのことは心配しなくていい。ただ、ライヤ」
 キリサカは息子の肩を抱いた。
「いいか、生きることを考えろ。家族を、トオヤを守れ。でも、お前も、不幸にならない道を選べ」



 闇の中を羽ばたく人口の鳥は、ガラスの鳥かごに舞い降りた。
 彼女は空を見上げ、その訪れを訝しく思った。いつもならもう少し明るい時間帯にやってくるはずなのだ。夜に飛行すると、不審物として捕らえられてしまい、また野生の動物に狩られてしまう可能性があるから。
 セシリアはスイッチを入れて、天井の窓を開けた。鳥が舞い降り、彼女の手元に止まる。しかし、その足にはいつものデータカードではなく、セシリアが最初にした時のように、紙が結わえてあった。
 それを広げると、読むのは一瞬だった。
 セシリアはドームを見上げた。深い夜空、ガラスは反射によって地上を写すだけで、星の輝きは見えない。
 何が始まるのかも分からない。
 それが正しいことなのかも。
 それでも、セシリアはそこで最も高い木に登った。木を登るのは初めてではなかった。突起のついた壁を登る訓練は繰り返している。だから彼女は決して脆弱ではない。
 鳥が割ってしまったことを利用して、せっかくだからと命じて作らせた窓を、見上げた。
 そして枝を蹴ると、枠に飛びつき、腕の力で身体を持ち上げる。
 頭を外に出した瞬間、ばっと風が吹き抜け、髪をなぶり、さらっていく。頭を持っていかれそうになって、セシリアは目をつぶり、耐えた。
 強い風だった。初めての空気のにおいがした。冷たく、鼻の奥が冷え、耳や首元が冷えていくのを感じる。不意に気配に気付いて、目を開けて上を向いた。
 星が広がっている。銀のきらめきは、空に広げた薄布のようだ。その縁を引っ張れば簡単にはがれて、身にまとえるのではないか。その紗はきっと、彼女が身につけたどんな白服よりも美しい銀色をしているはず。
「リア!」
 声がし、セシリアは見下ろした。
 男が一人、手を伸べていた。
「おいで」
 何が始まるのかも分からない。それが正しいことなのかも。
 ただ、それは友の言葉だったから。
 セシリアはドームを蹴った。柔らかい靴でガラスを蹴り、彼女は初めて飛翔した。

『窓を開けて、セシリア。
 窓を』



     *



 脱出の後、ライヤは友人たちを頼った――その時、第一階層に食い込んでいた、ゲーム開発会社の取締役についた男と、確固たる地位を築きつつあった化粧品会社のオーナーの女に。
 その助けで、アンダーグラウンドに降りた。トオヤを抱きかかえ、セシリアの手を引き、走った。


 最上位研究施設の外装を剥がして露にした基盤を見つめながら、ライヤはいつの間にか歯を食いしばっていた。
 扉よ、開け。祈りながらパスワードを打った自分を覚えている。
 ばん! と銃声がし、反撃しようと反転したが、しかし弾丸は鉄製の扉に跳弾し、ライヤの肩をえぐった。獣のような叫び声を上げ、肩を押さえてうずくまった。
 膝をついた前に、セシリアの姿が現れる。
 ライヤは微笑した。大人になって、彼女は本当に、世界を滅ぼせるような存在になったのだ。
「リア……」
 セシリアは優しい表情でライヤを見ている。
「どうして、あの時、オレと一緒に来たんだ?」
 彼女が答える前に、もう一つ問いを重ねる。
「どうして、あの時、一人で戻っていったんだ?」
 セシリアの答えは簡潔だった。
「あなたは分かっているのではなくて?」
 ライヤは息を吐き、呆れて笑った。
「――世界を守るため、か」

 セシリアがアンダーグラウンドのAYAの試験機で何かをしているのは知っていた。だがライヤはそれをチェックしなかった。セシリアは基本的にそういった痕跡は消去する癖があったし、データを復帰させてまで確認して、彼女を監視するような真似はしたくなかった。
 ただ、セシリアが見ていたものが、自分と同じものなら。

「……開発途中だったオレのAIを完成させて、それを搭載した四体の【魔女】の誕生。Sランク遺伝子保持者、君の後輩にあたる、エクスリス・オメガ=フォーへの過剰な実験。三氏による統制への序曲、一方で別組織が行っている人体実験に、君は危機感を抱いた。何故なら君は、このままではエデンが滅ぶことを予期していたから」

 Sランク遺伝子保持者の宿命を彼女は知ったのだ。ライヤよりも早く、彼女は秘されていたデータを暴き出した。皮肉にも、セシリアが脱出したことによって過剰になったエクスリスへの実験は、銀の髪と銀の瞳を持つ者たちの秘密を確定させてしまった。
 エデンは滅びるだろう。閉じられた世界で、人は進化を止める。進化をしなくなった人類はゆっくりと滅んでいく。留められた風が風でないように。動かない時が時でないように。内側から、滅ぶ。
 その人類が生き残る手段を探すために、セシリアは必要だった。彼女自身の肉体と彼女の血、遺伝子の配合の結果の白い容姿と頭脳は、汚染であり進化の一部でもある。楽園を越えるとはよく言ったものだ。エデンの名を冠したこの都市を出て行く存在が現れた時、人類は滅びず進化を遂げ、世界は開かれたという確かな証拠であり、世界の始まりの日になる。
 女神が次の女神に葬られる時、継承が果たされるその時こそ、せかいが動いた証。
 だから彼女の意志を継ぐ器となる彼女の生んだ娘は、最初から道具だった。

「それにアヤのことも加えてくれる?」
 セシリアはにっこりした。ライヤは苦笑するしかなかった。
「君が彼女に会ったのは、君がここに戻ってきてからの一年ほどの間しかないのに」
「それでも確証するには十分だったわ、ライヤ。あの子はわたくしの救い主だった。わたくしの始まりでもあった。そして、あの子はたった一人の友達だった。わたくしは戻り、あなたは戻らなかった。アヤは死んでしまった」
 かちりと音がしたのは、銃器が持ち上げられる音だろう。映像のセシリアの背後には、武装した警備ロボットが集っている。女神が命じれば、ライヤは簡単に蜂の巣になる。
「時は戻らない。世界は進む。世界はわたくしたちを連れていく。死者は留まり、魂の存在は明らかでない。わたくしはこうして針の進みを緩めたけれど、どんどんあの子からは遠ざかる。いつ会えるの? いつ心は震えるの? 身体が揺れて熱を増し、泣き叫びたくなるような喜びの時は、本当にまたやってくるの?」
 死んでしまったと叫んでいるようだ、とライヤは思った。同じようにライヤも思っていた。今肩から溢れる血は温い。目頭は熱く、大きくなる呼吸で肺が痛い。感じることが生きることなら、ライヤは生きている。確かにここにいるのに、埋められない空白がある。
 それでも生きてきた。死ねなかったのだ、どうしても。
「もういいよ」
 ライヤは言った。
「君の好きにしていいよ。オレも疲れたんだ。世界を変えるなんてオレには無理だった。Sランク遺伝子問題は解決しないし、統制コンピューターのAYAを作ってみたものの何が変わるわけでもなかった。もうつかれたんだよ。オレは、早く、アヤに会いたい」
 白い女神に向かって、ライヤは目を閉じた。
 セシリアの声が聞こえる。
「あの子ひとり救えなかったあなたに、世界は救えない」
 その通りだ。甘んじて受け入れよう。
「もういいのね?」
「……うん」
 女神に、慈悲を請うた。
 見えない空に、いとしいたったひとりを思い浮かべる。暗い地下に彼女を思った。毎日、彼女に話しかけていた。会いたくて会いたくて仕方がなかったのに、彼女がどこにもいない世界なんて意味がないのに、生き続けてきたのは。
(ごめんね。トオヤ)
 守ってあげられなくて。
 君も、お母さんも、守れなくて。
 目を閉じた。
 その時が、やってくる。


      



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