「ここまでやる? ほとんど跡形もないじゃない」
 七重が文句を言い、紗夜子は縮こまるばかりだ。騒いでいるのが聞こえて覗いてみたら不穏な空気だったので、怯ませればいいかと攻撃したのだが、自分でも、こうも綺麗にガラスが全部落ちるとは思わなかった。これが特殊な能力の不便なところかもしれない。
「ある意味爽快だけどな」トオヤは暢気に空を見上げた。
「うん。綺麗だよね」
「あなたたち、やっぱりどこか変」と七重がきっぱり言いきった。
「お嬢様。藤一様がお呼びです」
「そうだ、なんか写真撮るっつってたぞ」
 エガミのSPが七重に近付いてくる。七重はそれに抱き上げられながら、ため息をついた。
「嫌いなのよね、写真。しかもこれって、マスコミに何度も流されて、ネットにも流れて、本にもなって、最初の閣僚としてずっとずっと未来にまで使われるんでしょう? 憂鬱だわ」
「歴史に残ってみるのも面白いと思うけどな」
「あなたこそ残るべきなのにね」
 笑った。戸籍が抹消され、今も宙に浮いたままの紗夜子は、それまでの経歴もないため、戦闘部隊の戦闘員としても歴史には残らない。もしかしたら、気付いた誰かが掘り起こすかもしれない、というくらいで。
「ねえ、これが新しいエデンなの?」
 紗夜子はトオヤを振り返った。
「私、今日までに何人かの人と戦ったよ。みんな銃を持って暴れてた。新しい世界なのに、みんな銃を手放そうとしない」
 でもね、と紗夜子は言う。自分の腰の銃を取り出し、握りしめて。
 黒く輝く重いそれは、力の形。暴力を秘めた武器。
「その気持ち、分かるの。戦う手段を失うことがすごく恐い。弱くなってしまうのが怖い。弱くなって、命を落としてしまうことがなによりも恐いんだってこと」
 どうすればいいのかな、と自分の声が泣きそうになってくる。
 どうしたら誰もが思い描く理想の世界がやってくるのか。
「生きたい人が、生きていくべきだと思うわ」
 七重は言った。苦笑とも微笑みともつかない、凛々しい笑顔とともに。
「わたしたちはずっと地上に、空の下にあって、何も変わってこられなかった。UGだけ。あなたちだけが、変わろうとして、戦ってきた。先はどうあれ、今はこの街をそういう人たちに導いてほしいと思うわ」
 七重の言葉には羨望があった。そして、決意があった。
「そうして、きっと辿り着く。変化を止め、戦うことを止める時代に。でも、それからしばらくしてまた新しい時代を求めて誰かが戦う。わたしたちは、戦い続ける生き物なんだわ」
 七重は去って行き、残ったのは二人だけだ。葉の上や土の上にガラスの細かい破片がきらきらして、周囲は明るい金色や銀色に光り、空の色だけが異質なくらい青い。
 紗夜子はぽつんと呟いた。
「生きていくだけ……」
「生きてたいんだろう」
 トオヤが言い、紗夜子が答えようとしたとき、抱きしめられていた。頭の後ろを掴まれ、噛みつくように近付いた口元に、囁いた。
「……うん。生きてたい」
 いつか、トオヤは言った。
 なら生きろ、と。
「俺は、お前と生きたい」
 紗夜子は目を見開き、泣きたい気持ちで笑った。
 唇を合わせながら、祈りを唱える。
 生きる。なじられても。誹られても。戦うだろう。戦い続けるだろう。誰かを傷つけることを恐れながら、自分が傷つくことを恐れないと呟きながら。傷と血と痛みからは逃げられない。
 そうして、いつか心を震わす瞬間が訪れるだろう。生きることを実感するだろう。
 閉じた瞼から涙がこぼれた。
 ここは、エデン。楽園の名を冠した都市。

 顔を離すと、トオヤは呟いた。
「……やーっとジャックに大きな顔をさせずに済むぜ」
「……何が?」
 別にいい、とトオヤは言う。
 二人で壊れた鳥かごから一歩踏み出しながら、紗夜子はまだ銃を持っていることを思い出した。ちゃんとしまおうとした紗夜子が立ち止まったことに気付いて、トオヤが離れたところで足を止める。
「あ、そうだ」
 彼も不意にポケットを探り出す。そして何かを探り当て、それをこちらに向かって放った。
「キリサカの家で見つけた。パスワードすげえ厳重だったんだけど、解かれてなかったから。ちょうどいいし、やる」
 ボールを取るように右手で受け取った紗夜子は、それが小さな布ばりのケースだと知る。ぎくん、と、どきっ、の間のような音を立てた心臓で、一瞬目眩がした。
 ゆっくりと息を吐き、決意とともにそれを開く。
「……!」
 中には、ダイヤモンドのアンティークリングが収まっていた。
「もうちょっと落ち着いたらちゃんと店行くぞ、店! 覚悟しとけよ!」
 絶句した紗夜子に最高の悪戯を仕掛けたトオヤは、子どものように大声で笑いながらそう言った。紗夜子は左手で指輪の箱を抱きしめると、銃をしまおうとして、ふと、もう一度それを見つめた。
 黒く光る銃を初めて手にしたのは、もう遠い記憶になってしまっている。でも、流した血を、涙を、忘れようとは思わない。誰かの叫びを、誰かの望みを、戦って傷ついたことを覚えている。薄れても、傷つけ、傷ついたことは忘れない。
 見上げる、美しい空。これが、次の世界。
 何の変わりもない、次の世界。
 希望の都市になるのかは分からない。それでも、紗夜子の答えはたった一つだ。
 ここはエデン。美しく醜い、汚濁に満ちた聖なる場所。そしてありふれた世界でしかなかった。


 ――生きていく。


「うん。……一緒にいく!」


 そして、紗夜子は駆け出した。
 置いていかれないように、トオヤに向かって。


      



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