薄れかけた記憶をたよりに駆けていくと、目的の扉が見つかった。その扉は、何のパスワードも必要とせずに紗夜子に道を開けた。一週間前ジャックが解除していた扉は、近付くと自動ドアとなってどんどん開いていく。
 ミシャの姿はない。もしかしたら自分の方が先に出てしまったのかと不安になった時、紗夜子が一週間前入ってきた建物から外へ出る道が開いた。

 冷たい風に吹かれる。排気ガスのにおい。けれど、地下のように澱んではいない空気。
 見上げると、日が落ちて星が輝いていた。もう十七時を回ったから、冬の早い夜が来ているのだ。そんな当たり前のことを感じて泣きそうになる。彼方には第二階層と第三階層がうっすら見えていた。
(……感傷に浸ってる場合じゃない)
 ミシャを捕まえなくては。このまま放っておけるわけがない。
 ぐっと奥歯を噛み締めると、一気に走り出した。出来れば見咎められないように。出来るだけ見つからないように。
 でも、走れば走るほど思い知るだけだった。情報が少ない。頼れる人がいない。エデンと呼ばれる街は、一人の人間にとってはとんでもなく広い。そんな惑う紗夜子を、誰一人呼び止める人はいない。乗用車のヘッドライトすら寂しく感じられる自分に、明かりの灯ったいくつもの窓辺は、まるで夢物語のように遠い。
 息を切らして走り、路地裏まで覗いた。なんておこがましいんだろうと思うばかりだ。自分に誰かを助ける力なんてないと気付きたくないのに気付かされる。
 でも諦めることは、何故か、できないと思った。意地だったのかもしれない。今にも足を止めてしまいたかったけど。
(私、何してんだろ)
 自分のことで精一杯なのに、ミシャを助けたいとか。
 自分の居場所はもう地上のどこにもなくて。命を狙われていて。フィオナとナスィームが心配で。
 手の中には何もないのに、それでも何をしようというのだろう。

「エリシア……!?」
 懐かしい声。疲労で歪む視界に、女子高生の姿。
 だから、その声は、神様の意地悪のようだった。
 プラチナブロンドの少女と、黒髪に浅黒い肌をした少女。まだ褪せない大切な友人たちに重なり、けれど不確かな夢のような気がして、ぼんやり名前を呟いた。
「フィオナ……ナスィーム……?」
「エリシアだ。……エリシアだ……っ!」
 なのに、彼女たちははっきりと、紗夜子でない紗夜子の名前を呼んだ。だから、ああと紗夜子は息を零した。彼女たちが口にしてこそ、紗夜子のエリシアという名前は価値がある。二人は泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「エリシア、エリシア……!」
「心配したんだよ! 家が火事だって聞いたらニュースでエリシアが放火したって言ってるし……!」
 目が覚めた。
「ごめん、もっかい言って」
 目を丸くして勢い込んだ紗夜子に、フィオナは胸を撫で下ろしたようだ。
「ああ、よかった。あれやっぱデマなんだ。一週間前のニュースで、あんたの家が火事になったって言ってて、それが、あんたが放火したからってことになってんの」
 言葉を失った。同時に、怒りが込み上げた。こんな操作をするのは、たった一人しかいない。
 そして、気付く。二人の顔を見比べ、肩を鷲掴む。
「わ、エリシア?」
「どうした?」
「無事だよね? なんにも事件に巻き込まれてないよね!?」
「それはこっちの台詞。あんた一体どこにいたの?」
「学校、どうする気?」
 しっかり者のフィオナ。そして心配するところが学校だというのがナスィームらしい。紗夜子は笑いたくても笑いきれず、肩を落とした。
「ごめん、もう一緒にいられないんだ」
「どういうこと?」
「私にも分かんない」
「なにそれ」
 フィオナが笑う。けれど、その顔は引き攣っている。ナスィームがべそをかく。
「ごめん。これ以上一緒にいると、迷惑かける」
「待って。どこ行くの。居場所くらい教えときなさいよ!」
 立ち止まりたい。わっと泣き出して助けてと言いたい。
 でもちゃんと分かっていた。死にたくないと叫ぶ本能は、アンダーグラウンドに身を置けと警告している。今の紗夜子は、トオヤたちを頼るしかないのだ。
「ねえ、もしかして、UGのところにいるの?」
 ぎくり、凍り付く。フィオナが泣きそうな声で狼狽えている。
「そうなの? ほんとに? やだ、どうしよう。もしかして逃げてきたんだ。早く、逃げないと。家に……」
「だ、だめ!」引かれた手を振り払うと、フィオナの手がまた伸びた。
「なんで? UGから逃げてるんでしょ? うちを巻き込むとか心配しないでいいよ! 警察に言って保護してもらおうよ。だってUGなんだよ。このまま捕まったら何されるか分かんないよ!」
「あたしだってそんなで会えなくなるのやだ!」
 ナスィームはめそめそし始めた。
「このままだったらエリシア、UGに利用されて、傷付けられて、テロの実行犯とかにされて……最後に殺されちゃうよ!」

 今度こそ、手を振り払った。

 二人が呆然と紗夜子を見る。
「エリシア……?」
「……違う」
 利用されて、傷付けられて――第三階層から第一階層に落とされた。
 テロの実行犯とかにされて――家に放火したと報道された。
 最後に――命を狙われている。
「私を殺すのは……UGじゃない」
 分かった。UGが、何を求め、何のために戦うのか。
 アンダーグラウンドは、すべての汚名を雪ぎたいのだ。彼らのしてきたすべての犯罪とは言わなくとも、彼らに付随している罪状の多くは、第三階層が行ってきたことだから。
 第三階層は、何かがおかしい。
 今、二人と自分の間に線が見える。ここを越えれば紗夜子は戻れるが生きていけない。この線の向こう側に去れば、それぞれ命は守られるが、もう二人には会えない。
「エリシア!」
 二人にも線があるのが見えているのだろう。ただ向こう側から焦燥を拳に握り、名前を呼ぶ。
 戻っておいで。戻ってきなよ。
 足を止め、振り返り、いつかまでのさよならを口にしようとして。

「紗夜子――!!」
 トオヤの声がした。彼が何かを投げた。思わず自分を手で庇った先から、プリズムが周囲に展開する。

 空気が弾ける。
 シールドが銃弾を防ぎ、びりびりと震えていた。
 神経が途切れて動かなくなった自分の身体がそのままトオヤに引き倒され、上に覆い被さられる。重い、と呟いた思考は正直で、でも状況を理解していなかった。すぐ側で、耳がおかしくなるくらいの、声、音、光。
 紗夜子は、悲鳴を上げ銃弾に倒れていく人々の中で、アスファルトに伏したまま動かなくなった友人二人から目を離せなかった。


      



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