呼吸を整えながら流れ落ちる汗を拭って振り返った先に、紗夜子がいた。ぐらぐらと瞳を揺らしているのが見て取れ、初陣なら仕方がないと思っているうちに、細い身体は足から崩れ落ちた。
「おい……!」
 駆け寄ろうとした足が無意識に止まった。
 まるで瞬間移動してきたかのように、エクスリスが紗夜子を抱きとめていた。あの爆発の中、決して汚れなかった白のファーコートに身を包んだ教主は、舞台上にいるかのような完璧な慈愛の表情で紗夜子を見ていた。
 それにどうしようもなく不快感が込み上げ、トオヤは意識的に一歩を踏み出していた。
「緊張の糸が切れたのですね。英才教育を受けていない身で、よく頑張ったと思いませんか?」
 宝石のようでいてガラス玉の目だ、とトオヤは思う。
 そこには魂がない。
「勝手に連れ出すな。そいつのこと、分かってるんだろ?」
「ええ。――高遠紗夜子。高遠氏の娘で、捨てられた子ども。本当に生きているとは思いませんでした」
 トオヤは目を細めた。エクスリスの手が、紗夜子の乱れた黒髪を掻きあげる。
「彼女の存在に、どれだけの人間が歓喜するでしょう。第三階層、特に最上位研究施設の研究者たちは、彼女の生存を知って沸いているでしょうね。……僕も、とても嬉しい……」
 爆風で髪は埃まみれ。頬には、破片が飛んだのかかすり傷と黒い煤の跡。ぐったりと身体を投げ出している紗夜子に、くすくすと軽やかな笑い声を降らせ、エクスリスは少女を抱き上げた。
「彼女は僕が連れて行きましょう。あなたにはまだ後始末があるでしょう?」
「……何もするなよ」
「彼女が望まなければね」
「生臭が」と吐き捨てた。白く汚れない姿をしているが、中身は無数の蛇や蜘蛛が潜んでいるようなものだ。薄く笑っているその顔をめちゃくちゃに出来たらどんなにいいだろう。不快感を抱くのは同性だからか。それとも。
 それとも、どんなに遠ざけても忘れようとしても頭の隅に残っている、惹かれてやまないと感じている自分に嫌気がさすからか。
「あなたは触れ合うことの意味を知らなさすぎます。その体温や感触を感じることは、生を実感することです。だからあなたも女性を抱くんでしょう? 引く手あまたで羨ましいかぎりですが、食わず嫌いはよくないですよ。ちゃんと膳に載ったものは頂かなくては」
「死ね」
 多分どちらもだ。

「僕たちは皆、闇の申し子。誰しも闇へ堕ちていくことだけができる。光になどなれはしない。生まれながらにして抱いている欠損を寄り添って補うことだけが人間にできることです。惜しむべくは、多くの者がそれに気付いていないこと。触れ合うことは罪ではありませんよ」

 それとも、とエクスリスは首を傾げた。
「君がここ最近女性のいるお店にも行かないのは、紗夜子が気になっているからですか?」
 トオヤは、はっきりと、言った。
「殺す」
「おやおや。よっぽど大切なようですね。でも、知らないわけではないでしょう、 霧坂遠矢? 僕もあなたも第三階層者、彼女の花婿たる資格を有しています」
 眉をひそめた。
「……第三階層の純血計画か」
 第三階層者の血統保持のために、第三階層の人間同士が結婚することをかつて純血計画と呼んだ時代があった。今ではもう当然とされている行為になっている。
 エクスリスが赤い唇を引いた。
 トオヤは注意深くそれを見つめた。この、自ら望んでアンダーグラウンドに落ちてきた魔性の存在。
 惹かれてやまない。そう感じるのは――似ているからだ。

 かつて、アンダーグラウンドには女神がいた。白い女神が。

 同じ色彩を持つエクスリスは関係者のはずだが、トオヤは接触を終了させた。このままでは取り込まれることが目に見えていたからだ。その決断を、トオヤはUGを守る行動だったと確信している。
 すると、心を読んだかのようにエクスリスは言った。
「心配せずとも、あなたたちの邪魔はしません。惹かれてくるものは拒みませんけれどね」
 悪びれない笑顔に、どうしても眉間の皺が消えない。
 逃がさないでいるべきだ、UG先鋒部隊の頭としての冷静な分析はそう言っているのに、触れては危険だと本能が警鐘を鳴らす。だからUGはエクスリスを拘束しなかった。こいつは毒だ。触れれば、内部からUGを侵す。
 UG本部は、エクスリスが動かないことを確認して手を引いた。いや、本当はまだ決断できていないだけなのかもしれない。エクスリスをどうするのか、どう扱うべきか。まだ、トオヤには分からない。

「……俺は時々、お前こそがエデンを滅ぼすんじゃないかという気がする」
「いつでも壊せるものを壊しても、楽しくはありません」
 そう笑いながらうそぶいてみせる目の前の存在が神を騙ったとしても、偽りと見破れる自信はなかった。



「僕も、エデンが変わればいいと思っていますよ……」



 最後にエクスリスはそう囁き、紗夜子を抱いて去って行く。心から言ったように感じるよりは、冷笑や影を感じさせる声音だった。
 嘲笑する魔性の背から目を離さずに、トオヤは無線に報告を入れた。

「――【司祭】一体確保。現時点でをもって全隊撤退開始。アンダーグラウンドに帰還する」


      



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