「……今はいないようね」
「だからそう言ったろ。人質を下ろせ。紗夜子に何の用だ?」
言葉を遮るようにして「でも」とダイアナは目を細めた。
「もうすぐ、来るわ」
豹が笑う顔だ、と思った、そのとき、UGの全無線に報告が飛び込んできた。
『非常事態発生! 紗夜子を連れて、』
すべてを聞いてトオヤは目を見開いた。
「なん、だって……?」
思わず漏れたという呟きは、同じ報告を聞いて動揺した声に掻き消された。振り向いたトオヤの背後で、【魔女】が魔性の瞳をゆるりと瞬かせる。視線の先に現れた男と少女に、トオヤは瞳に怒りを燃やし、敵に向けるべき銃を向けていた。
親友に。
UGの仲間、三人組の一人、ジャックに。
紗夜子は後ろ手を取られたまま、顎先に銃を突きつけられていた。骨に当たる黒い金属は、ぞっとするほど冷たく、無慈悲な弾の味を感じさせる。
「動きなや」
同じ温度でジャックが言った。UGたちが戸惑いから回復し、死角を取る直前、トオヤが【魔女】を振り返る。
その目の前で、ダイアナは持ち上げた手にあった銃の引き金を弾いていた。ばん! と火花が飛ぶ。トオヤが寸でのところで生体義肢に負荷をかけて跳躍しなければ、確実に右肩を撃たれていた。その隙にジャックは素早くダイアナを背後にし、退路を確保している。
「バカ! お前何やってんだっ!!」
「なにて……見たら分かるやろ。やいやい言いなや。ほんま、頭に血ぃのぼるとお前はあかんな、トオヤ」
歯を噛み鳴らし睨みつけるトオヤとは対照的に、ジャックはいつも通りのへらへらした人を食った言動を崩さない。なのに、紗夜子の身体を捉えるのとは逆の手にある銃は、トオヤから決して狙いを外そうとしない。
「ごめんなさいね。あなたたちと戦う意志はないけど、紗夜子にここにいられると困るのよ。この場所で〈聖戦〉が行われるようなことがあってはならないから」
「……〈聖戦〉?」
「情報を小出しにして釣ろうって腹か?」
尋ねたのはハクエンだ。顔を隠しているので声でしか分からない。あらごめんなさい、とダイアナは愛嬌のある微笑みで肩をすくめた。
「そういうつもりではなかったんだけど。でも、そうね。追々知っていくだろうから、予習ということにしておいて。サヨコの身の安全は保証するわ。わたしはサヨコを迎えにきたの」
紗夜子は目を見開き、だが首を振った。
第三階層。支配者たちの世界。アンダーグラウンドにいる今、サヨコが最も憎む場所だ。
もうそこは、私の居場所じゃない。
「排除命令が出たんじゃなかったのか」
「さあ、どうかしらね」
そろそろ行きましょうか、とダイアナはジャックを促した。
「待て! ジャック、お前、自分が何してるのか分かってるのか!?」
「分かっとるよー。俺は、お前とは違うもん。俺は、自分の望むことのために行動しただけや」
ジャックは穏やかな声で言った。
「俺、このまま戦争が平行線なのは嫌やねん。だらだら続いて、犠牲が出んの、もう耐えられんねん。だったらサヨちゃん連れて、戦いを一段落させる。約束してもろたんや。サヨちゃん連れてくから、UGと会談する用意してくれるって」
「そんなの嘘に決まってるだろうがっ!!」
トオヤの怒気は本物だった。作戦や打ち合わせの気配は感じられない。紗夜子は足下から飲み込まれていく気がし、喘ぐように天を仰いだ。閉ざされた空、人工光の光は頼りない。
「ダイアナ、こいつらはそんなに説得に応じてくれるような人間やないで。もう行った方がええわ」
「そう。いいのね?」
まっすぐな目を向け、惑わすようなことを言ったダイアナに、ジャックはにっこりと頷いた。
「ジャック!」
そこで、それまで一言も発さずに成り行きを見ていたディクソンが前に出て、ジャックを呼び止めた。ジャックは笑顔で振り返るが、その目は虚ろに見開かれている。
「本当に、いいんだな?」
重い確認の声に、問われた方は軽薄に肩をすくめた。
ひと呼吸の間があった。
次の瞬間、連続した発砲音が紗夜子たちを包んだ。
「きゃあああっ!」
「止めろー!!!」
トオヤの制止の声がかろうじて聞こえた。ジャックが紗夜子を振り回し、その先でダイアナが紗夜子をかばった。同時にジャックが投げたシールドが、紗夜子たちを包み込む。悲鳴に怯んだようにわずかに発砲が鎮まり、その一拍前にジャックがシールドから躍り出て、跳んだところから踵を叩き込んでいた。
ブーツと手甲、固いものどうしがぶつかる鈍い打撃音。
「ジャック、止めろっ、ディクソン!」
縋るトオヤの声にも二人は止まらない。
そのまま足を捕まえられる前に、ぶんと振られたジャックのもう一方の足がディクソンの側頭部を狙う。しかしディクソンは腕を跳ね上げてその蹴りを阻み体勢を崩れさせた。ジャックはディクソンの腕を踏み台代わりにし、背後を取ろうとする。ぱん、と音がしたがシールドがびいんと鳴って銃弾を防いだ。ジャックの全身を包んだプリズムに、発砲したUGたちがぎょっと目を剥いた気配がした。
シールドというのは文字通り盾であって、持ったまま移動は出来ても、全身にぴったり添うように作られてはいない。そのため、銃撃等はシールドを乗り越えたり解除して行わねばならない。
だがジャックのシールドは、身体をすべての攻撃から防ごうというものだ。どこからそんな技術を、とUGたちが驚くのも無理はなかった。こんなものを持っているのは、アンダーグラウンドか第三階層しかない。
銃撃を笑ったジャックだったが、着地する瞬間、トオヤが拳をばねのように繰り出したのを防がねばならなかった。腕を交差して一発を防ぎ、次の攻撃を
腕を振ることで流し、軽く跳躍して威力を増した蹴り技をしゃがむことでかわした。そこから足を跳ね上げさせたジャックは、上から叩き込まれようとするトオヤの手を首を逸らして避けた。
「おっ、と!」
銃は効かないと知ったディクソンが、その太い腕を大きく後ろに引き下げたところだった。ジャックは斜めに倒立回転して距離を取り、ディクソンの拳が宙を掻く。ジャックは遊ぶようにくるりとバク転、持ったままの銃をぐっと後ろにやった。
それは、ダイアナに押さえつけられた紗夜子の頭部にぴたりと向けられていた。
三竦み、だった。ジャックは紗夜子を巻き込んだことで一人優勢だ。
「あかんなーサヨちゃんおんのに撃つなんてー。サヨちゃんの信頼なくしたわー。なあ?」
紗夜子は答えられない。どうしてこちらに銃を向けているのに、そんなに親しげに笑いかけてくるのだろう。
「トオヤ。俺はこれを選んだねん。このままじゃ、アンダーグラウンドは第三階層に絶対に届けへん。――俺が、突破口になる」
「ジャック……俺が言ったこと、気にしてんのか」
心なしか青ざめたトオヤに、あっは! と明るい声をあげる。
「そんな歳ちゃうでー。気にしいやなあ。……だったら言わんかったらよかってん」
トオヤの顔に突かれた痛みが広がる。
「ジャック、遊ばないで。帰れなくなるわ」
ダイアナが静かに割り込んだ。
「もう一度言うわ。サヨコの安全は保証する。第三階層には彼女が必要なの。エガミとタカトオがこの子を守るわ。元通りになるだけよ。捨てられた少女が家族のもとに戻るだけ。あなたたちの戦いは別の形を迎えるかもしれないけれど、サヨコは戻れるのよ、トオヤ」
トオヤはうなだれている。
何か言って、トオヤ。なのに相反する思いが紗夜子の喉をつぶす。――足を引っ張りたくない……!
「……っ」
紗夜子は意を決してダイアナを振り払った。肘が肩にぶつかり痺れたように動かなくなったが、足を使って牽制する。
「あ……っ!」
しかしあっさりと捕らえられてしまう。必至に足をばたつかせて抵抗したが、女物の軽い靴では、ぱかぱかと音がするだけだった。そのうち、その黒いエナメルの右靴が落ちてしまった。ダイアナがふっと息を抜いた、次の瞬間、頭が真っ白になり、紗夜子は崩れ落ちた。
「紗夜子っ!!」
ぴし、ぱり、と弾ける小さな火花がダイアナの手から発せられていた。電撃のショックで気を失った紗夜子を担いだジャックは、最後にトオヤを振り返った。トオヤはひたとジャックの意図を掴もうと目を逸らさなかったが、UGはトオヤの命令もなしに動き出し、トオヤを先頭から引きずり下ろす。
プリズムが揺れて攻撃は無効化される。学校から帰るときのように、ジャックは明るく手を振った。
「ちゅーわけで。……ばいばい、トオヤ」
UGは手を打つべく散開した。だが指令を出したのはトオヤではない。
あくまでトオヤは、『第三階層から逃れたキリサカ家の息子』という旗頭で、ボスの息子であるジャックから一時的に指揮権を委譲されているだけであり、本来先鋒部隊指揮官であったジャックがアンダーグラウンドを離れた現状、トオヤはただのUG戦闘員でしかない。ジャックがいなくなった今、トオヤから指揮権は完全に離れた。
「ボスに報告。ライヤにも報告しとけ。……あいつのことだから、カメラで見てもう知ってるだろうがな」
ハクエンがトオヤを呼んだ。目下の危機が去ったため、ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
「トオヤ。お前は本部に顔出すこと。引き継ぎはディクソンがやれ。ジャック周りの調査は、後から人を寄越す。とりあえず端末記録を、」
「――なんで!」
トオヤは叫んだ。しかし、時も止まりもしなければ、人の動きも制することができなかった。何故か。ただのだだっ子の泣き声だからだ。
最初の攻撃は、探りを入れるつもりでかかった。だがジャックは決して手を抜きはしなかった。トレーニングのように遊んでくることもなく、手加減もしなかった。あのジャックが、トオヤとディクソンを相手に逃げるのではなく攻撃したということが、トオヤには何よりもショックだったのだ。
(何考えてやがる!)
気付いたらいつも一緒にいた。理解者で、親友だった。ジャックはトオヤにとって、トオヤはジャックにとって、そんな関係だった。
選んだ、という言葉がトオヤに頭を抱えさせる。分からなかった。戦うことを、長引く戦闘で傷つく戦闘員を気遣うことができる、温和で人懐っこく、しかし優柔なジャック。あいつがどうしてアンダーグラウンドを裏切ったのか。何を思い、何を望んで行動したのか。
何を選んだのか。
仲間だと思っていた。ずっと、いつまでもそうであると。信じていたのは、自分だけだったというのか。
眉間に集中する力で頭痛がした。目の奥が、喉が、ひりりと焼け付いた。何を言っていいのか分からない。ただ、怒りをぶつけるのはお門違いだということだけ分かる。
ハクエンは呆れと共に息を吐く。
「なんでもくそもあるか。家出息子の長らくの勝手を許してくれた本部のお偉方に、すんませんって頭下げに行くのは当然だろうが」
「嫌だ!」
叫んだ。
「親父に頭下げてたまるか!」
失態に対して誠意を見せるべきなのは常識だということは分かっている。ただ、親父にだけは。
家族を見捨て、戦うこともなく、地下の穴蔵に引っ込んだ、あの男にだけは。
ハクエンは捨てた煙草を足で踏み消し、声を上げた。
「今から先鋒部隊は本部の指揮下に入る! トオヤ、ジャックの指揮権は剥奪、先鋒部隊の隊員は俺の指示に従え! ディクソンは本部隊員への異動辞令が出てるから、さっき指示したことの主導を取ること」
「!」
弾かれたように顔を向けたトオヤに、ディクソンは笑いもせずに応えた。
「私の任務は、お前たち二人のお目付役だ。ジャックがUGの計画に支障を来す可能性がある存在になった以上、私の所属は本部に移る。命じられればジャックと戦うよ」
すまない、と言うくせに、ディクソンの態度は揺るぎなく厳格で容赦がなかった。
「私は、ボスの命令に逆らうつもりはないよ」
トオヤは行き場のない感情を拳に握りしめた。声もあげられない。歯を食いしばり、拳を握りしめても、くすぶるものは消えることがなかった。
ディクソンはそこを離れ、ハクエンの指示通りに動くために背を向けた。UGたちはジャックと【魔女】を追ったが、捕まえることはできないだろう。通り過ぎていくUGたちから取り残されて、トオヤは地に目を向けた。
靴が、落ちていた。薄っぺらな女物の靴は、紗夜子の足に収まっていたものだ。暴れたときに脱げたのか、抱え上げられたとき落ちたのに気付かれなかったらしく、かと言って拾う必要に見いだされずに、拾い上げる者もおらずに転がっていた。
落ちているものを放置できず、拾った。
軽い、と思った。この靴に収まる足で駆けていけるのが不思議だった。
もう二度と、その姿は見られないかもしれない。第三階層では高い服を着て高価な椅子に座るようになるのかもしれない。可憐な洋人形に似た姿、その足が収まるのは、きっと走ることを目的としない華奢な靴だ。
紗夜子に強くなれと言った自分が。
紗夜子が、強いと言った自分は、今ここに立ち尽くすだけ。
(何も……出来ないのか)