第4章 央   
    


「外を覗いてもよくってよ」
 あまりに落ち着かない様子だったからだろう。エルザリートは呆れたようにキサラギに許可を出した。街が近づく頃になって外が見える窓には帳が下され、絶対に外を覗くなとルイズに厳命されてしまっていたキサラギは、ぱっと目を見開いて身を乗り出す。
「いいの?」
「あなたがわたくしのことを守ってくれるなら」
 じゃあちょっとだけ、と少しだけ布をめくる。
 ――今は夜か? と思ったのが最初だった。
 暗い。冬の、日が落ちた後の曇り空のような薄暗さ。色彩の乏しさ。人々の顔の生彩のなさ。
 山や丘の合間を埋めるようにして作られた街は、いびつな形に広がっていて、あちこちに門があるらしい。壁は三重に張り巡らされて、キサラギたちがいるのは二層目だ。街の中心部にある、広くて大きな平たい建物が、ルブルス城だという。城は、遠目から見ても作り物と思えるくらいに大きいものだった。
「綺麗な街じゃない、というのが感想かしら」
 乾いた声でエルザリートは笑う。
「それでも、この道はましな方。街の外側、北地区には、貧民街があって、家も仕事も持てない者たちが路上に眠るようなひどい有様だそうよ」
 そうした地区に住むのは、地位を失い、居場所がなくした人々だという。
「剣闘で負けたんだね」
「そう。騎士として取り立てられたものの敗北し、騎士を名乗れなくなった者、その敗北によって地位も家も失った貴族といった、何もかもをなくした人々がそうして集まっている。そこから這い上がることは不可能とも言われているわ」
 自分もそうなるかもしれないのだ。彼女やエジェを道連れにして。
(本当に、私は戦っていけるだろうか……)
 恐れは、一度芽吹けば、何度引き抜こうとも新たな芽を出す。
 けれど、恐れを失った竜狩りは死ぬだけだと言われてもいた。命の重みを実感できなくなった時、簡単に投げ捨てることができるからだ。
 恐怖するとき、生にしがみつくことができる。
 けれどそれだけで戦っていけるわけではないことも、よく分かっていた。
「あなたの目的のものだけれど」とエルザリートは声をひそめる。
「『竜』に詳しい人間に心当たりがあるわ。繋いであげられると思うけれど、しばらく大人しくしていてちょうだい。あまり大きく動くと、目をつけられて余計な邪魔が入るから」
「やっぱり、話題にはしない方がいいんだよね?」
「変人扱いされたくなければ。……わたくしも、あなたに言われるまで特に気にしたことはなかったけれど……先日の決闘の時の竜といい、ルブルスのように防壁のないところでは、どんな風にして竜の襲撃を防いでいるのかしら……」
 竜狩りがいない、ということはないだろう、というのがキサラギの見解だった。どこかに専門家がいて竜を退治しているはずだ。ただ人でなく竜人としての要素を持つ王国地方の人々に、竜を遠ざける要因がないとも言い切れない。
 そのため、エルザリートには、竜に詳しい人物、戦う人間でもいいし研究している者でもいい、なんだったら王国地方の竜の歴史に詳しい人でもいいから紹介してくれ、と頼んだのだ。あまりいい顔をされなかったのは、屋敷の人々が青ざめるのを同じ理由だろう。
(近付きすぎると、こっちが標的にされる)
 馬車は首都を突き進み、中心部のルブルス城に到着する。キサラギが先に降りて差し出した手につかまって、エルザリートが下車した。
 特に迎えもなく、エルザリートはキサラギたちを連れて、薄暗く湿った城内を進んでいく。
(石の洞窟を、奥へと進んでいくみたいだ)
 音が奥へと吸い込まれていく。出口を見失っていくように思える。
 ある分岐でエルザリートが足を止めた。
「わたくしはお兄様に挨拶をしてくるわ。キサラギ、エジェ、あなたたちは今夜の準備をして、時間がくるまで待機していなさい」
 言って、ルイズを連れて行く。キサラギたちは、ヴォルスに連れられて、別の道を奥へ進むことになった。
 オーギュストは、エルザリートに先立ってルブルスに戻っていた。彼女に帰還を促したのは彼だろうし、先に行ったのは彼女を受け入れる準備を整えるためだろう。エルザリートの立場が妙なことは、マイセン大公の夜会でなんとなく分かっていた。
(結局、何も言わなかったな)
 竜とこの国と人々に関して調べる時、最も注意せねばならない人物が、オーギュストだ。
 キサラギの動きを察していたと思うのだが、それを止めることも、その後のことにも介入しなかった。今回は静観することにしたのか。それとも、別の機会にぐさりとやられるのだろうか。
 とある日に、窓からこちらを見下ろしていた目が気にかかっている。
 ひどく冷たく、キサラギを値踏みしていた。
 その目は、何かを含んで見つめてくるセンに、よく似ていた。
「首都じゃ、まあ、夜会はいつものことだ。騎士を見せびらかしたり、新人をお披露目したりする。騎士の仕事は、日中は御前試合、夜は夜会って感じだな。エジェ、お前、クロエの弟ならそういう場は慣れてるだろう。キサラギに教えてやれ」
 エジェの顔色が変わる。キサラギでも分かったのだから、本人も分かったはずだ。
 ヴォルスは気づいていないふりをした。青ざめた顔を気遣うことなく、そこが控え室だと告げて、自分が呼びに来るまで着替えをして待っていろと行ってしまう。
「左がキサラギ、右がエジェのだ。大人しくしてろよ」
「着替えって」
 部屋は長椅子と机が置かれ、姿見が壁にかけられている控え室だ。二人分の衣装が壁にかかっている。着替えをしろと言われても、性別を忘れられていないだろうか。エジェを見ると、彼は平然を装って黙りこくっていた。
「夜会って、私は一度しか参加したことないんだけど、エジェは慣れてるの?」
 だからキサラギは無邪気に尋ねてみた。エジェの視線は一点に据えられたまま動かない。口も開かない。
 仕方がない。そう思って着替えを手に取った。エジェの視線の反対側に行き、手早く上着を脱ぐ。新しい上衣を素早く身につけて、脚衣を履き、身体の線が分からないようにしていると、だん、と重い音がして部屋が揺れた。
 エジェが壁に拳を叩きつけていた。くそ、くそ……と小さな声で罵っている。壁に押し付けた手は、身体からの震えで大きく揺れていた。
 キサラギはそれを見ないようにして、黙々と着替えを終えた。
 赤い詰襟だった。上着は上半身を覆う外套になっていて、裾は女性の服に似た形で広がっている。両足の腿の部分に切れ目が入っていて、そこからぴったりした脚衣と長靴が見えるようになっていた。生地はすべて硬い質感のもので、色は紅。釦や飾りは金という派手なもので、悪目立ちしそうな気がした。
 対するエジェは濃緑色。キサラギとは違い、首回りの襟元と、脚部分といった前が開いた外套を着る衣装だ。のろのろと着替えを始めたエジェは、その心の中に痛みを叫ぶ葛藤を抱えたままでいる。しかし、どんな形でも生きると決めたのは彼で、エルザリートの手を取ったのも彼自身の選択だ。そのことに、エジェ自身がまだ悔いる部分があるのだろう。
「こんなことを聞くのはまだ早いと思うんだけど……エジェは、後悔してる?」
 人を殺せそうな目で彼はキサラギを見た。ぎりりと歯を噛み睨む顔は、最初に会った時、襲撃してきたあの獣のような目だ。
「図っておいてよく言う」
 呪いを吐く低い声だった。
 キサラギは首を振った。
「私は何もしてない。待ってただけ。選んだのは、エルザだよ」
「お前はどうしてあの女に肩入れするんだ。あいつは、人間の命を使い捨ててなんとも思わない、貴族の女なんだぞ」
「エジェにはそう見えるの? だったら、顔を洗ってきた方がいいよ」
 キサラギのそっけない物言いに、エジェは真っ赤になった。掴みかかられそうになったところを、その手首に触れ、勢いに沿ってくるりと回す。腕を捻られたエジェが呻いたところで、とんと突き飛ばした。
「感情に目を曇らされて、大事なことを見落とすのはもったいないよ」
 覚えがあるので、言って、微笑した。
 怒りや憎悪は、簡単に人の目を曇らせる。目に映るものを捻じ曲げ、自分の悲しみや憎しみにふさわしい形に歪めてしまうのだ。
 ただ、エジェはまだ、許せない。兄を殺したというエルザリートのこと。
「お兄さんはどんな人だったの。こういう場に慣れてるだろうって、どういう意味?」
 エジェは外を気にした。キサラギを見ず、じっと顔をしかめている。
「……俺たち兄弟は、下級貴族の生まれだった」と拳が白くなるほど握りしめて、彼は語った。
 ロリアール家というのは、ルブリネルクにおいて下級貴族の地位にあった。領地もなく使用人も少ない。王宮に出仕して日々の糧を細々と得ている。その収入源たる仕事は、主に城内の人々の警護や、城の警備といったものだったらしい。そのように、剣が使える者を、王宮で登用しているのだ。もちろん、後ろ盾となるものがないので身分は低い。使い捨ての兵士だ。
 クロエとエジェの兄弟は、そうした家で、父とその友人知人に剣を教えてもらって育ってきた。首都に家など到底持てないので、実家は地方にあり、父は単身赴任で、時折帰ってくるだけ。母はとうになく、兄弟は父の知人たちに育てられたといっても過言ではなかった。剣士もいれば学者もおり、その地方の貴族の夜会などに招かれるくらいには、教養を身につけさせてもらったのだそうだ。
 やがて、父が病に倒れた。代わりに出稼ぎに行くのは、兄のクロエだ。彼はたまたま、とある高貴な人物の騎士の登用試験を受けないかという話をもらった。
 それが、エルザリートの騎士だったのだ。
「最初は、よかったさ。兄貴から手紙が来て、騎士になったって喜んでた。主人もいい人だって……それが、あんな」
 飲み込んだ感情には炎がたぎっていた。
「悪口の言い合いの尻拭いをさせられて命を落とすなんて」
「悪口……?」
「貴族社会で、一番多い決闘の理由が侮辱罪なんだよ。そのご令嬢は、あの女に自分の着ている衣装か髪型かを侮辱されたとかで、決闘を申し込んだ。兄貴は騎士として戦って、勝った。けど、その時の傷がもとで、命を落とした」
 くだんねえ、とエジェは吐き捨てた。笑おうとして、笑えずにいた。
「俺たちの剣は、そんな、くだらない自尊心を守るために使われる」
 目がぎらぎらと輝き、自分がそうして剣を持っていることが、心の底から許せずにいるようだった。
「お前はエルザリート姫がそんな人間じゃないなんて思ってるらしいが、あいつも、結局自分の地位を守るためにお前を使い捨てにするぞ」
 そうかもしれない。キサラギの冷静な、竜狩りとしての部分が頷いている。けれど彼女は変わるかもしれない、と彼女を支えたいと願っている自分が言っている。それは、理屈や理解を超えたところにある直感めいたもので、不確かなものは何もないけれど。
「エルザは、私に言ったんだ。――王国地方へようこそ、って。本当の意味は、含まれたものもあったろうけど、異邦人の私にそう言ってくれたのは、エルザだけだったんだよ」
 扉が開く。時間だとヴォルスが告げた。
 歓迎された。ここにいることを、喜んでもらえた。
 ただそれだけで戦おうと思うのは、決して愚かなことではない、とキサラギは信じている。

    



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