第6章 伝   
    


 お前の名を呼ぶ者の声が聞こえる。
 ――吐き気がする。歪んだ望みを囁く汚れた声で、その名を呼ぶな。
 ここはどこだ。頭が痛い。視界が暗い。何も考えられない。自分は、黒竜に――再び、思考が闇にかき消されていく。息ができなくなり、意識は再び沈んでいく。
(来るなよ、キサラギ)
 ここは、腐臭と血臭に満ちている。呪いが蔓延しているのだ。
 竜人がかかる、狂気の呪いだ。
(キサラギ)
 その狂気を払うことのできるものは、たったひとつ。
 ――人間の血が、竜人の願いを叶える。キサラギは、自分の知る限り、唯一この呪いの地にのこのこやってきてしまう人間だった。
(キサラギ……)
 声が出ない。何も見えない。
 自分もまた、呪いに囚われた。長きに渡った戦いの、その決着を終えたことで、逃れようのない穢れの中に落ち込んだのだ。呪いは絡み、身動きが取れない。
(……キサラギ)
 それでも名を呼んだ。呼ばずにはおれない名前だったからだ。
 恐らく、自分は、彼女を――。


   *


 ただ、黙々と身体を動かした。そこで止まってしまえば、しばらく足が萎えて動けなくなるだろうと知ってのことだ。その隙に、突き崩され、力を奪われてしまい、キサラギは、もう二度と自分の足で立てなくなるだろう。
 キサラギと戦った他の四名は、騎士舎を去った。
 ブレイドに行方を尋ねると、騎士の資格を剥奪した上で、それぞれの家に帰したということだった。だがそれは、この国の規則に則るなら、帰郷した先で彼らはそれまでの地位を剥奪され、貶められるということだった。
 ルオーグの遺体は家族が引き取りに来た。やってきたのは、兄という人だった。不在だったオーギュストの代わりに、応対に出たブレイドに卑屈なほど詫びて去っていった。キサラギには、微笑みをくれた。
「馬鹿な弟が、失礼をしました。あなたは、ずいぶんお強いようですね。どうか、身体に気をつけて、腕を磨いてください」
 殺人者に与えるにしては優しすぎる言葉に、何も返せないのは、キサラギの感覚がおかしいからだろうか。彼は、キサラギを詰ってしかるべきだ。遺体を前に崩れ落ちて泣くべきだと、そう思うのに、その人は愚かなことをしたと死んだ弟を責めるのだ。
 示された予定通り、オーギュストの騎士舎で訓練を行い、エルザリートの予定に合わせて警護の任務に入った。彼女はしばらく休んだらどうかと提案したが、キサラギは首を振った。彼女の瞳が、苦悩と苛立ちを宿すにつれ、悪いことをしているな、と自覚した。
 エルザリートもまた、かたくなに優しさを拒絶するキサラギを、どのように慰めたらいいのか分からないようだ。結局、お互いに何も言わずに、ただ日々を過ごした。
 その日、部屋に戻ったキサラギは、扉の内側に封書が滑り込んでいるのに気づいた。拾い上げた封筒には、封印が施されている。こんなに仰々しいものを送りつけてくるようなのに、心当たりは一つしかない。引き出しにあった小刀で封を開けた。

「……確かに、御前試合への招待状だわ」
 届いた手紙を見せに、キサラギはエルザリートを訪ねていた。彼女は、キサラギが渡した封筒と中身を一通り確認して、きゅっと眉を寄せている。あまりよくないものだというのが分かる。
「御前試合ってなに?」
「龍王陛下の前で行われる剣闘試合のことよ。龍王陛下の勅命で、あちこちから騎士が選ばれて、勝ち残り戦を行う」
 でも、変だわ。そう言って、エルザリートは思案げになった。
「この手紙、試合への参加命令ではなく、観戦しろと書いてある」
 確かに、キサラギは観るのではなく、参加させられる騎士の立場だ。いったいどういうつもりなのだろうと考えていると、エルザリートは手紙に鼻を寄せ、すんと息を吸い込んだ。
「エルザ?」
「……これ、お兄様じゃないわ。多分女性よ。覚えがある香りなんだけれど、いったい誰だったかしら」
「受けた方がいいと思う?」
「来ても来なくてもいい、ということだと思うわ。署名がないということは、向こうは素性を明かすつもりはないのでしょう。ただ、意図が読めないのよ。御前試合で、あなたに何をさせたいのか」
 女性からだということで、エルザリートはかなり神経を尖らせているようだ。しかし考えても結論が出なかったのか、封筒を返しつつ言う。
「観戦はおすすめしない。陰惨で残酷だから。けれど、騎士というものを知るには最適な場所だと思うわ。ああ、もしかしたら、あなたの反応を見て楽しみたいという陰険な誰かからの誘いなのかもしれないわね。あなたが激怒するのが目に浮かぶから」
「そんな風に言われると、行きたくない気持ちと、行きたい気持ちがせめぎ合うんだけど」
 エルザリートは悲しげに目を細めた。
「わたくし以外の者なら行くべきだと言うでしょうね。わたくしにも席が用意されているはずだから、あなたが行くというのなら、わたくしも行くわ」
 口を開こうとしたキサラギを、心配なのよ、という一言で制す。
「行くべきだと、何かが告げている。けれど、嫌な予感もするのよ」

 エルザリートの号令で、キサラギの外出着が用立てられた。同時に彼女も新しいドレスに身を包み、馬車に乗って、闘技場に向かった。
 御前試合が行われるのは『岩』と呼ばれる会場で、他にも『川』や『砂』といった名前がついている場所があるそうなのだが、会場入りして納得した。
 その闘技場は、岩や石が転がされた試合場だったのだ。わざと地形を作り、演出している。だから、『川』や『砂』も同じように付けられた名前と同じものが試合場を成しているに違いなかった。
 招待状があるということで、キサラギは騎士の身分ではなく招待客なのだが、エルザリートの後ろに護衛として控えていた。彼女が、一段高くなった席に現れた途端、その場にいた人々の視線を集めるのが分かった。キサラギもまた衆目を浴びている。何人かは、先日の試合のことを噂しているのだろう。
 観客席には、中央段の最も見晴らしのいい場所に、黄金の天幕に覆われた席があった。ゆっくりと姿を現した龍王に、すべての者が立ち上がり、着席した王が手を振るまで頭をさげる。
(竜騎士はいない……)
「竜騎士が試合に出るのだわ」
 思ったとき、エルザリートが扇の陰で囁いた。
「王の側に竜騎士がいないのは、そのつもりだから。恐らく一番最後の試合よ。優勝者と当てる気だわ」
 あの、黒い兜の男。レイ・アレイアールという名前の。
 王太子の一の騎士であるブレイドに勝ったといっていた。どれほどのものだろう。そう考えていたキサラギの耳に、歓声が飛び込んでくる。王が試合開始を宣言したのだ。
 ――それからは、もう、言葉もなかった。
 逃げ惑う対戦相手を、一方が追い詰める。足腰立てなくなったのを、傷付いた方を踏みつけて悲鳴をあげさせる。嘲笑めいた歓声が起こり、やれ、という言葉が叫ばれた。剣が振り上げられ、腕を落とす。ひときわ凄まじい悲鳴が上がった。
 別の試合では、降参だと叫ぶ相手が、直後、心臓を突き刺されて動かなくなった。
 次の試合では、対戦者が殺した相手を嬲ったことによって、審判に引き剥がされることが起こった。
 岩には様々な血が飛び散り、闘技場をまだらに染めていた。立ち込める熱気と、人の油と、血臭が、この辺りの空気を汚していた。
(人殺しの見世物だ)
 目を閉じられない。その陰惨さに、目を逸らしてはならないと思う。キサラギは、そこに立つ人間なのだ。
(……でも、やっぱり、嫌だ)
 拳を握り締める。
 凄惨な試合を目の当たりにしてわき起こるのは、やはりこんなことはしたくないという叫びだった。
 試合は進んでいき、最後に竜騎士が現れた。彼が姿を見せた途端、会場は、しん、と静まり返った。
 それほどまでに静寂と沈黙を引き連れた姿をしていた。黒衣と黒い鎧、顔半分を覆う兜。短い銀の髪がそよと揺れる音がしそうな。女性たちからほうっとため息が漏れる。
 優勝者と竜騎士が進み出る。試合開始の宣言は、歓声に紛れて消えた。
(あっ……!)
 竜騎士の一撃は、一瞬にして相手から気力を奪ったようだった。速い。そして、重い。受け止めることはできたが、力量の差を見せつける洗練された剣撃。それを見た瞬間、竜騎士が勝つ結末がキサラギには見えた。
 そして、その通りになった。竜騎士は、少し遊ぶかのように相手の力を見ると、急速に冷めるようにして興味を失い、自分でそれを壊した。ぱん、と破裂するようにして、首が飛んだ。
 エルザリートが、どっと席に身体を沈めた。顔色が真っ青だった。
「エルザ。出よう」
 彼女を抱えながら、キサラギは竜騎士を見つめた。勝者への歓喜の声が降り注ぐ中で、彼は別の世界にいるようだった。何も聞こえない。何も見えない。ただ戦うためだけに生きている。この世界に彼の心を動かすものなど何もない。そんな風に見えた。
 ただ、その圧倒的な力と、超然的な態度は、何もかもをそぎ落とされたセンならそうなるかもしれない、と思わされるものがあった。
(セン……センじゃないよね。あんたは、人に使われたりしないよね)
 それに応えるようにして、竜騎士がふとこちらに視線を向けた。キサラギはぞくりとした。
 飢えて乾いた温度。まとわりつく、薄暗い興味。
 キサラギはエルザリートを抱え上げると、逃げるようにしてすぐさま試合場を後にした。

「……あれが本当の剣闘なのよ」
 部屋に戻ってきたエルザリートは、こみ上げるものを手巾で押さえながら、キサラギに言った。
 比べ物にならなかった。騎士たちの技量も、その戦いの凄まじさも、決着の惨さも。なまじ全員が素晴らしい使い手なだけに、相手を再起不能にするという行為が、残虐なものになっていた。
「キサラギ。剣闘を行ったとして、相手はあなたを殺すつもりで挑んでくる。でも、あなたはそうじゃない。そうやって、本当に勝てると思うの」
 エルザリートの瞳の色は、最初の頃のように沈んでいた。
「明確な殺意ほど、強いものはないわ。それは人を強くする。二度と戻れないところへ落とし込む」
 大きく息を吐き、エルザリートは己の両手をさすった。
 キサラギは、その手を取った。
「……人殺しをしたら、私はもうこうして誰かに触れられないと思う」
「キサラギ……」
「人を傷つけたことはあるよ。向こうが殺意を持って挑んできたから、自分の身を守るために戦った。でも、それと、自分が殺そうと思って戦うことは違うと思う。本当は誰も傷つけたくないっていう気持ちが誰にでもあるから、この世界は残酷でも優しいものなんだろうと思ってた」
 けれど、と言葉が落ちる。
 瞼の裏には血の色が、耳の奥には残虐を歓迎する歓声がこびりついている。
 あれが、人の本性だというのか。
「……この国は、変だ。人の命を奪って当然だと思ってる。弱い人間は死ぬべきだって。ねえ、そうしたら、戦えない人たちはどうやって生きるの。誰も傷つけたくないって思う優しい人たちは、どうやって息をするの」
 残酷すぎる。キサラギは呟いた。
 この国は酷い。だから、決めなくてはならないのだろう。一時の止まり木として、ここにいるつもりだった。だが、そうは言っていられない状況が、キサラギの足に枷をつけている。
 ここに残るか、旅立ち逃げるか。
 見捨てていけるのは今しかない。
 エルザリートの両手がキサラギの頬を包む。
「……このままでは、あなたは折られてしまう。あなたの中に燃えているものを消してやろうと考える人たちがいる。彼らは、希望を折るのに無上の喜びを覚えている。それに抗うのは、長く辛い戦いになるわ」
 私は、と青い瞳が涙の膜で揺れた。
「あの時、手を放してあげられなかった。一人になりたくなくて、そばにいて欲しくて、どうしても言えなかった。『逃げなさい』と、そう言っていたら、……クロエは死なずに済んだわ」
 クロエ・ロリアール。エジェの兄。キサラギの前にエルザリートの騎士であった青年。エルザリートのために剣闘を行い、その時に負った傷が元で亡くなってしまった。
 エルザリートは、その時のことをずっと後悔しているのだ。
 しばらくじっと手を握っていた彼女は、ふっと息を吐くと、脆い微笑みを浮かべて、まったく別の話を切り出した。
「あなたに頼まれていた件、先方に連絡がついたわ。こちらに来ているそうだから、いつでも会えるそうよ。その話を聞いて、どうするか決めて。ここに残るか、出て行くか」
 キサラギは咄嗟に手を伸ばしたものの、柔らかに振りほどかれる。
「一緒に戦おうって言った」
「いつか道が分かたれるとも言ったわ。わたくしは、それは早い方がいいと思う。このままでは、わたくしたちは二人とも、もつれあってこの国に縛り付けられるわ。そうなるのはもう嫌よ。あなた一人ぐらいは、逃れてほしい」
 キサラギは怪訝に思った。
「何があったの」
 決別の宣言に聞こえたのだ。キサラギの見えないところで、エルザリートに事件が降りかかっているのではないかと思わせるような。しかし、彼女はかぶりを振った。
「何もない日なんてないわ。わたくしたちは少しずつ、この国に縛り付けられていくのだから」

    



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