一瞬の静寂の後、わっと生徒たちが集まってくる。
「大丈夫ですか!!?」
(あれ……そんなに痛くない……?)
 下にしっかりとした柔らかいものがあるからだ。

「え……と、常磐君!?」
「大丈夫ですか? どこか打ってませんか、内藤さん」

 少年は佑子を腹の上に乗せていた。

「大丈夫だけど! 君、また私の下敷きに!」
「丈夫だから平気です。内藤さんこそ」
 冷静に何度も名を呼ばれて、ごくんと焦りを呑み込んだ。
 ここには、人の目がある。
 今、自分は司書。彼は生徒。冷静にならなければ、常磐に迷惑がかかる。
「……うん、平気。君は大丈夫なんだね? 本は……」
 落ちたのは手に取ろうとした一冊だけだったようだ。便覧、事典類は重い。降ってこなくてよかった。大怪我につながるところだった。
「よし、無事か。補修代、こわいもんね」
「心配するところそこですか」
 常磐が苦笑し、ほっと空気が和んだ。
「ああ、よかった、二人とも怪我がなくて」
「すごいよ羽宮。王子様かよ!」
「……別に」
「でもマジすごいって! あんな咄嗟に、」
「静かにしてくれないか」
 それは最初に会ったときの常磐のような冷たい声。
 びくっと生徒が口をつぐむ。佑子も言葉が引っ込んだ。「そ、そんな言い方……」と弱々しい同級生の反論を、常磐は目だけで黙らせた。壊れた梯子を黙々と片付け始め、佑子は急いで箒とちりとりを持っていく。木屑が散らばっていた。後で掃除機をかけた方がいいかもしれない。
「梯子、傷んでたんだね。危なかった。これからちゃんとチェックしないとね」
 恐る恐る話しかける。もし冷たい態度に逆戻りしていたらどうしよう、と思う自分が頭の隅にいて、彼の横顔から目が離せなかった。
「壊されていたんですよ」
 その言葉は、側にいた佑子にしか聞こえなかったようだ。常磐は無表情。だからこちらを見るときにはもの柔らかな笑顔で「気をつけてくださいね」と言う。彼が行くと、生徒たちも散っていった。
 佑子が念のため梯子を確かめると、踏み外した段の一方が割れており、もう一方は切り落としたような綺麗な断面になっていた。
(壊されていた……)
 周囲を見る。元通りになったと思った空気は危険があった一瞬だけで、あとは佑子を無視する状態になっている。無視、無関心。だがさきほどの反応を見れば、その状況が彼らの意志ではないことは分かった。
 けれど、彼らの背後、でももしかしたら彼らの中に、敵意を抱いている人間がいる。
 昼休み終了のチャイムが鳴った。生徒たちが慌てたように本を戻し、あるいは借り出していく。一気に館内が騒がしくなり、しかしチャイムの残響が消える頃には静かになっていた。カウンターの片付けをしながら、そっと唇を噛み締めようとして。
「佑子さん」
「常磐君!? まだ行ってなかったの、早く行かないと、授業に遅れるよ!」
「心当たり、ありますか」
 声に引きずられるように、佑子も顔を強ばらせた。
 自分を落ち着かせるために深く息を吸い込むと、分からないけど、と前置きして。
「『暁の書』はどこだ、って聞かれたことがある」
「『暁の書』? ……理事長の課題ですか?」
「やっぱり本当なんだそれ。私、関係者だと思われてるみたいだけど、全然さっぱりなんだよね」
 手に入れた者を理事長とするという課題が出ている学院に、創立者と同じ『内藤』の名字を持つ佑子が現れた。どうやら、よほど手がかりがないらしい。常磐は難しい顔で考え込んでいる。しかし、そんな彼を佑子は追い立てた。
「ほらほら、そんなところで考えない。遅刻するよ、早く行って」
「佑子さん」
「私なら大丈夫」
 気にしてないよ。そう見えればいいと軽く手を振った。常磐は心配そうに眉をひそめて、無理したように頷いた。そして扉を開けて、ふと何か思い出したようにこちらに向き直り。

「あなたは、僕が守ります」

 耳に低く打つような声でそう言った。
 扉を開けて出て行く、凛とした背中。

 佑子はそれを呆然と見送って、胸から首、顔にかけて、血が上っていくのを感じ、暑さのあまりよろめいた。
 視界に、星みたいなものが飛んでいる。もしかしたら花だったのかもしれない。それくらい、すごく。
(は、恥ずかしいいい……!)
 なんだ今のは! どこの小説だ! 目撃者がいたら是非とも尋ねてみたかったが、その最後の一人を追い出したところだった。
 火照る頬を隠すために椅子の影にへにゃりと座り込んで、息を吐く。
 閲覧机の椅子や新聞や本の位置を戻しながら、決めた。
(常磐君のアレは……分かってないふり、するべきだ)
 常磐の言動諸々は子ども特有の思い込みで、彼を最初にまともに見たらしい佑子に、ただ目が眩んでいるだけなのだ。それだけ、あの子はずっと一人きりでいた。
 応えてあげたい。そう思ったけれど、怖かった。
 一人のひとの未来を左右する言葉を、彼の未来を限定してしまうかもしれない自分を、恐ろしく思った。ただ、祈ることしかできなかった。
 助けてあげて。
 あの弱くて頑なな心を、誰かほどいてあげて。

 深呼吸する。目をとじ、大きく息を吐くと、呟いた。
「引きずられちゃだめだ。……だいじょうぶ。しっかりしろ」
 意識して口の端を持ち上げて、仕事に取りかかることにした。

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