(今日は森君、いないのかな)
 見ていないから、今日は来ていないか、教室にいるのかもしれない。蝶々が飛んでいるような日だし、外に出た方がいいと思う。常磐が午前中座っていた吹き抜けで本を読んでいたら、きっと秋風が気持ちいいだろう。
 外で昼寝をしたい欲求を打ち消すために、予定を頭の中でざっとさらう。破損した本の修復作業や書類仕事をし、生徒からのリクエストに応えるため近隣の学校にある本を取り寄せる電話をかけて、放課後には図書館をまた開くのだ。
「『暁の書』、か……どんな本なんだろう? みんなの様子も変だし。どんな噂が回ってるんだろう」
「疑問に答えようか?」
 後で常磐君に聞いてみようかな。独り言を言ったはずなのに答えがあって、ぎょっと顔を上げると、森がカウンターに腰掛けていた。
「いつの間に……」
「生徒には派閥と階級がある。生徒会を頂点に、風紀委員会と広報委員会が権力を持っているかな。一般生徒は彼らの命令に従っているんだ」
 演説するように滑らかに語られ、面食らった佑子だが、すぐに飲み込んだ。
「学院の誰かが、私に嫌がらせするつもりで命令したわけね?」
 生徒会か風紀委員会か広報委員会か。佑子の中では風紀委員が有力だ。香芝は風紀副委員長だと聞いた。
 森はよくできましたという顔で頷く。
「ちなみに君が創立者の関係者だとは一部にしか知られていない。もし知られていたら、教師たちの君への態度は大幅に変わっていると思うよ」
 それもそうだ。知っているのは、恐らく面接をした校長や教頭くらいだろう。創立者の子孫ということは問題にはならない。内藤家は、現在の黎明学院の学校法人に手を出していないはずだからだ。
 だが、知られたことによる余計な憶測、推測、例えば佑子が理事長権を狙っているなどという邪推が、大切な仕事を滞らせるのは大問題だ。
(このまま続くと厄介だな……)
 しかし新任で騒ぎを起こしたくはない。問題があるとはいえ、一度就いた仕事だ。放り出したくない。
「噂を集めるなら広報委員の槙野か、生徒会長の嵯峨、教諭たちもいいかな。ただ、動けば嵯峨、香芝、槙野に知られるということは覚えておきなさい。学院と生徒は密接につながっている。それがここのいいところでもあるんだが」
「君って……不思議な子だね」
 不登校生徒の割に、彼には陰がない。常磐の方がずっと暗いところを抱えているように思える。それに学院の状況に詳しい。教諭たちが内藤と佑子のつながりを知らないということを、どこから聞いてきたのだろう。
 でも『不思議』という言葉は傷付いたかな。そう思ったのに、彼はにっこりしてこううそぶいた。
「そういう存在があった方がいいだろう?」
 床に伸びる影が動いたのを視界の端に捉えて、佑子は身を乗り出した。扉を開けたのは、めずらしく、佑子に指導に当たる司書教諭主任の東教諭だった。
 東は気さくな笑顔をくれた。
「やあ、仕事はどうですか?」
「あ、はい! それなりに……です」
 答えてから、もしかして生徒たちの状況はすでに耳に入っているかもしれない、と思った。あれだけ浸透していれば、教諭の耳に入っていないこともないだろう。
 本当にふらっと現れたので慌てたが、これはチャンスだと思い直す。話を聞く相手を選ぶとなると、佑子の場合、教諭の方が不自然ではないだろう。梯子が壊れた件を報告せねばならないし、ちょうどいい。
「………あれ?」
「どうしました?」
 いえ、と首を振る。いつの間にか森がいなくなっている。そう言ってもよかったのだが、逃げたということは東には会いたくないということなのだろうから、言わないでおいた。

 東は館内を見回しながら、ふむと頷いた。話を聞いてくれそうな雰囲気を察知し、佑子は世間話くらいのつもりで話しかけてみた。
「図書館に来る生徒って、結構みんな似ているような気がするなって思うようになりました」
「ああ、読む子と読まない子はすぐに分かりますね」にっこりする東は国語教諭だ。
「そうじゃない子がいると、この子は図書館に慣れてないなって目立つんですよね。例えば、香芝君とか、羽宮君」
 ああと東は笑顔になった。
「あの綺麗どころね。理事の関係者ですよ。もう一人、生徒会長の嵯峨には会ってませんか? 彼も綺麗な子でね。彼ら三人合わせて、学院の三王子と呼ばれてるとか」
「へえ! …………えっ、学院内でですか?」
「学院内でです」
 頷かれてしまった。男子校なのだがいいのだろうか、と佑子の脳裏には「殿下!」と呼びかけられる少年たちが手を振っている。三人にはそのうち弟分ができたりするのではなかろうか。
「聞いてるかな。理事長が大変な課題を出したでしょう。ちょうど夏休み前に発表があって、ちょっと騒がしかったんですよ。ご家族に理事がいる、嵯峨、香芝、羽宮が中心になってて」
 東はカウンターの中で広げていた学校図書館関連の本を見やってから、佑子を見た。その目は少し、真剣だ。佑子ははっと妄想を打ち払う。
「……その三人のお家の方が、理事長になろうとしているってことですか?」
 真剣に聞くべきだと思い、慎重に尋ねると、はっきりとは言わなかったがそういうことらしい。
 理事の三家。嵯峨。香芝。――羽宮。
 少年の姿を思い浮かべて、無意識に目を細めていた。
 胸が重い。
 羽宮家は欲しがるかもしれない。内藤家と縁付いて家を建て直そうとするくらいだ。常磐も、氏から命令されれば探すだろう。
「子どもたちに悪影響がなければいいんですけど……」
 心の底からそう思って口にすると、東は苦笑した。

前頁  目次  次頁
INDEX