「そうですねえ。でもまあ、彼らはうまくやっているようですよ。お互い気にしているみたいですけどね。香芝と羽宮に会ったんでしょう? 嵯峨に会えばなんとなく分かるんじゃないかな。文武両道の切れ者で、僕なんかすぐばっさりやられてしまう」
 くつくつ笑えるのは大人の余裕からだろう。五十代くらいの東は、佑子など足下に及ばないちゃんとした大人だ。
「いじめなどはないんですか?」
「ない、と思いますよ。言ったように嵯峨は立ち回りがうまいし、香芝は抜けてて微笑ましいし、羽宮は淡白で無関心です。……心配ですか?」
 むしろ佑子の方が心配だという顔をされて、びっくりしながら、そっと頷く。
「困ったことがあれば、いつでも言ってください。ところで、宮沢賢治の写真が見たいんだけど、何かいい本あります?」
「えっ……? あ、えっと……!」
 びっくりして書類を落としそうになり、慌てて宮沢賢治の伝記を探す。本の最初にはカラーページがあって、作者の幼少時や代表的な肖像が印刷されているからだ。
「これでいいですか?」
「ええ、それでも十分なんですけど、出来れば、羅須地人協会の、集合写真かなにかがあったらいいな」
 咄嗟に思いつかなかった。宮沢賢治について書かれた本を当たってみなければ、これだと言えそうにない。
「すみません、今は分からないので調べておきます。いつまでにご入用ですか?」
「一ヶ月くらいかな。でも調べなくて結構ですよ。お忘れですか、私は司書教諭です」
 きょとんとした先で東の優しい笑顔にぶつかり、全身の血が頭に上った。
(試された……!)
「意地悪ですみません。でもちゃんとしていらっしゃるようで安心しました。こちらにいらした理由が理由だったので、気になってまして」
「っ、……いいえ?」
 本当なら叩いてやりたいくらいだが、コネで入ってきた小娘に疑問を抱くのは当然なので、笑って応じる。東もまたにっこりしたが、どう見てもいい年の大人が子どもを転がす顔だった。彼にとっては、佑子も生徒と変わらないのだろう。

 東は使いたい本があるのでと言って、大量の本を借りていった。結構な冊数だったので佑子も職員室へ運ぶのを手伝い、最後に職員室内に向かって笑顔で会釈して扉を閉めた。
「……このやろー」
 生徒たちが踏みしめて灰色に褪せた木の床を見ながら、顔を引きつらせた。思うところはあったが、東はそれだけ佑子の能力を気にしていたのだ。力のない自分が嫌になりそうだったが、振り払った。自分に対して落ち込むなら、力をつけなければ。
(嵯峨、香芝、羽宮の三人が理事。嵯峨君は生徒会長。三人はお互いに牽制しあっている。それに……常磐君が淡白で無関心……)
『暁の書』の話まで踏み込めなかったが、気になる言葉がいくつか。
 あり得ないことではなかった。佑子が最初に会った常磐は、誰にも関心を寄せない、冷たく綺麗な男の子だ。それが一転して、佑子に対してだけ優しく笑うようになった。
 でもそれが、佑子への恋からくるものだとは信じられない。
(だって八つも年上だよ? 何が好きになった理由なのか、全然思い当たらないし……)
 よくも悪くも同じ価値観の、同じ年頃の男性と付き合ってきたので、常磐のようにどんな価値観を持っているのか、抱えているものがあるのかが分からないことがそれほどなかったからだろう。
 これを年齢ギャップという。
「………………」
 ごっつん。
 自分から壁に頭をぶつけた。
 ……自分で思ったくせに落ち込んだせいだった。
 長いため息をつきながら東棟からピロティを突っ切って図書館に戻る。日差しが強いのに気付いて顔を上げた。図書館の涼しく紙のにおいがするのもいいが、土と太陽のにおいもいい。よく空は晴れて、うんと背伸びをして手を伸ばしたくなる。曇っていた気持ちが晴れそうだ。
 そんな風にして再び歩き出したとき、右足から靴がすっぽ抜けてしまった。おっと、と立ち止まった、そのとき。
 進行方向に水が降った。
「!?」
 ばしゃあ! と水たまりが広がる。驚きのあまり膝が崩れ、尻餅をついてしまった。
 くすくす、くすくす、と笑い声が校舎に反響する。
 はっとして上を見ると、人影がさっと窓から引っ込むところを確認した。
(三階!)
 走るため靴を脱いで両手にナックルよろしく握りしめると、階段を一段飛ばしに駆け上がる。チャイムが校内に響き渡り、教室から吐き出された生徒たちが、必死の形相で上へのぼっていく佑子に何事かという顔をしていく。
 三階についたが、人影はもう次の授業に移動する生徒たちに紛れてしまっていた。ストッキングの足裏が濡れているのを感じ、目をやると、水場が近い。バケツが転がっており、使った形跡があった。
「…………」
 生徒たちが不審の目を向けてくる。この中に間違いなく、佑子を攻撃対象にしている人物がいる。
 世界が歪んでいくような感覚を覚え、ざわめきに悪意がないか、聞きたくないのに無意識に耳を澄ましている。笑い声に心臓が縮み、頭の芯が鈍く、冷えていく。この感覚には覚えがあった。無視、無関心、怪我はしない程度の、もしくはそのぎりぎりの悪戯。子どもの頃も、大人になった今でも日常的に潜む、他愛ないと言えば他愛ないけれど、心を鋭く斬りつけていく悪意。
 ここはその感情の巣窟だということに、今更気付く。
(誰が負けるか)
 正面を睨みつけると、叩き付けるように置いた靴を履き、階段を駆け下りた。

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