閑話一

 ことことと湯が沸いている。その激しい泡に歓声とも悲鳴ともつかぬ嬉しげな声をあげて、クラスメートの一人が「すげー! すげー!」と言っている。何がそんなにすごいのか。俺にはさっぱり分からない。
 エプロン姿の生徒たちが、このレトロな学院では異質にも思えるぴかぴかのステンレスの調理台を行き来し合い、その度に「騒がないこと! 静かに調理すること!」と浮田教諭の声が飛んでいた。その必死なほどのヒステリックさに、高校二年生にもなって包丁を刃物とは思わず振り回す馬鹿がいると思っているのだろうかと、渋い顔になった。
 二年三組の調理実習の課題はみそ汁と鮭の塩焼きで、小学生の調理実習かと思うメニューだ。白米がすでに教諭によって炊かれているというのもそう思う要因の一つだ。時間が足りないのは分かるが。
「なー、玉葱どこまで剥けばいいわけー?」
「おっ、スプーン三十グラムくらいある!」
「うるさいなあっ、ちゃんとやれよ!」
「鮭に塩ってどれくらい振るんだろう……」
「オリーブオイルって油? 普通のと何が違うの?」
 だが調理する人間は猿並みの集団。作業以外のことをして、騒いで、笑い、小突き合って。
「うわっ!」
 ついに塩の瓶を落とす。蓋が開き、白い結晶が床に撒かれる。
「なにやってんだ馬鹿」
「うっせえ。うぜえよ」
 ぎゃははと笑う奴らに、これまでの蓄積が爆発した。
「――どこが笑うところだ馬鹿者がっ!!」
 ぴたりと口を閉ざしたクラスメートたちに、俺は包丁を突きつけた。
「いちいち口を開かなければ料理もできないのか! 俺を見ろ! この芸術的な玉葱の薄切りを! 落としたのが塩であったことに感謝しろ、もし包丁で、足下に落ちていたら大事故になっていたからな!」
 そして湯で喜んでいた奴に言う。
「何もしないなら火を止めろ! 用意ができているなら火を弱めろ、馬鹿!」
 きつく睨むと、ごくんと喉を鳴らして、クラスメートはコンロから一歩引く。その間に割り込んで、俺は火の勢いを弱くした。泡は先ほどより優しく、ふつふつと弾けた。
「何をぼけっと見ている! さっさとやれ!」
 怒鳴りつけると、今度は先ほどより静かに、調理が始まる。たかがみそ汁と鮭の塩焼きだ。何も面白いところはない。
「助かったわ、香芝君。ありがとう」
 浮田教諭が声をかけてくる。玉葱の薄切りを見て「丁寧ね」と笑った。この学院に来て三年目のこの人は、まだまだ大学で学んでいる方が景色に馴染むような女性教諭だ。
「いえ。風紀委員でもありますので」
 当然のことなのでそう答えると、同じ班の木野下が、肩をぽんと叩いた。
「香芝……」
「なんだ。包丁を使っているところでふざけるな」
「かっこいいんだけどさ、……三角巾とエプロンで台無しだよな!」
「いい笑顔で言うな!」
 何が指をぐっ! だ。何が。白い歯を光らせるな。クラス委員は木野下で、クラスをまとめるのはクラス委員の役目だというのに、また反感を買うようなことをしてしまった俺は、眉間の皺に重たい気持ちを込めた。また『三王子』とか呼ばれて調子に乗っている、などと言われるに決まっている。バスケ部の次期主将だという木野下こそ、爽やかさも板について、よっぽど『王子』らしい。
 と、俺はあの騒ぎにも手を止めずに煮干しで出汁を取っていた、『三王子』の一人、羽宮常磐を見やった。
 理事三家の子どもたちのうち、羽宮常磐だけは二歩も三歩も引くように学院内で孤高を貫いている。入学当初、俺も嵯峨も羽宮に接触したが、反応は芳しくなかった上、ヤツ自身が不可侵の線を引いたので、三者の関係は妙な二等辺三角形を描いた。俺は風紀委員会、嵯峨は生徒会、羽宮は一般に紛れたのだ。
 俺たちの斜め前の調理台を使用している班の羽宮は、俺が怒鳴っている間もまるで声が聞こえていないような静けさで火から目を離さなかったし、包丁が机の縁に近いところに放置される度に、それを奥の方へと置き直していた。そんな奴の気遣いを、班の奴らはちっとも気付かず、手間のかかる仕事を羽宮に押し付けて、しかしそれを後ろめたそうにちらちらと窺っている。そんなに気にするなら、話しかければいいものを。
 そもそも、羽宮も羽宮だった。誰とも打ち解けず、誰が話しかけても素っ気ない。好意だぞ、もうちょっと嬉しそうにしろ、と俺などは思う。しかし奴はどんな好意も受けないが、どんな悪意にも反論しないので、本当にあいつにとって学校生活はどうでもいいものなのだな、と感じる。問題を起こさず、成績を保てればそれでいい、というような。
「羽宮って、ちょっと変わったよな」
 木野下が鮭の水分を拭き取り始めながら、俺の視線に気付いてそう言った。
「『変わってる』、ではなくか」
「前まで『話しかけるな』オーラ漂ってたけど、ちょっとまろやかになったよ」
 そうだろうか。そうかもしれない。それでも鉄壁の無表情だ。浮かべても嫌悪と嘲りばかり。
「図書館に通ってるって噂になってたけど」
「図書館?」
 内藤佑子がいる、あの図書館か。
 前任者が休職したために、急いで雇われた新任司書のことは、すでに全校の噂になっていた。はきはきとした物言いと、てきぱきとした動きはもちろんだが、物怖じせず俺たちに向かって笑いかける。俺たちは、媚びには聡い。今、調理台を見回りをしている浮田教諭などは、俺たちが一年のときにはまだまだ媚びがあって、今もそれが抜けきれていない。怖いのだろう、と思う。俺たちは高校二年生で、すでに彼女より体格も力もあるのだから。
「…………」
 包丁を下ろした手が止まる。
 初日、内藤佑子に鋏を向けたことを、俺は悔いていた。何故そんなことをしたのか分からない。鋏も刃物だ。誰かに向けるなどと、物心つかない幼子ではあるまいに、どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
 謝る機会があるならそうしたかったのだが、タイミングが掴めなかった。内藤佑子の顔を見ると、何故かこう、胸がぐるぐるして、頭がいっぱいになって、俺を見るな! と叫びたくなる。真っすぐすぎる。あいつの目は。
「羽宮も気になってるのかね、司書さんのこと」
「あ、俺見たぜ、二人が一緒に帰ってるの!」
 とたん! と目測が外れて、完璧な薄切りは、下半分のない失敗作になってしまった。
 会話を聞いていたらしい小石川が、木野下に言った。
「初日だったっけ。羽宮が図書館の前にずっといてさ! 俺部活前にそれ見てて、部活終わりでもまだそこにいて。そしたら司書さんが出てきて、一緒に校門出てったぜ」
 小石川の襟を引き寄せた。
「どうして後をつけなかった!」
「なんで俺に言うんだよお!」
 襟を突き放して、考える。
 羽宮常磐が内藤佑子と接近しているのは、やはり、内藤佑子は『暁の書』に関係しているということなのか。

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